昭和四十五年六月七日 朝の御理解


御理解第九十八節 「心は神信心の定規じゃによって、お伺いする時には、とりわけ平気でなければならぬ。落ち着いて静かに願え。」


 正しく、心は神信心の定規じゃと。いわゆる心は神信心のバロメーターだと。お伺いをする時には、とりわけ平気でなければならん。お伺いをするという事は神様に直接お尋ねをする、御神意を伺うと。これは神様は誰にでも、いわば話かけておられるのですけれどもね。心の定規というか、心の状態というものがそれをキャッチする、それを聞き取るだけの内容がないところに、神様はお話をしどおしにしてあるのだけれども、それをキャッチする心がない訳です。
 片島センという大変お徳の優れた女の先生がおられた。もういちいち神様に御神意を伺われて、いわゆる神様とのお話合いができられる程しの方です。その先生が言うておられる事、お書物になっておるのを私、見せて頂いた事がありますが中に「神様は世界中の氏子に話がしてみたい」とおっしゃっておられる。世界中の人間氏子にね、話がしてみたいと。私は神様の願いというか、これは人間だけの事だけではありませんに致しましても、人間だけの事に致しましてもです、人間の幸、不幸の鍵を握ってござる神様。その神様がね、人間に話かけたいと話がしてみたいと、それが神の願いなんです。どうでしょうかね、いちいち神様から話かけられる程しの私達にならせて頂いたら素晴らしかろう。教祖様は「この頃は天に一家が出来た」と言うておられます。天に親戚が出来た。だから降り照るの事でも何でも神様が知らせて下さるという訳なんです。「今日は雨が降るぞ。傘を持って行けよ」今日は雲っとるけど、傘は要るまいという風な・・・。私も二十年も前の修行の頃には、やっぱりいちいち神様からそういうようなお伝えを頂いておった。一生懸命の修行の時分には、やっぱり神様に通う心と言うか、それが切であっただけではなくて、もう純粋な、只、その修行の事だけ神様を思う事だけ、我情もなからなければ我欲もない。そういう時。
 私は今日、九十八節を頂いたんですけれど、御神前で頂いたのが『玉ねぎのちょっとゆがんだような、根をスッパリ切ってきれいにした玉ねぎを頂きました』玉ねぎと言や臭いものです。根がスッパリ切ってある。少しゆがんでおる。はゝあ、これは心の中にある臭いもの、心の中にあるいうなら神様のお嫌いになる心いうなら少しゆがんだところは、ゆがんだ心。そういう根を断ってしまえという事だと思うた。その御心眼を今日頂いてね。信心とはそれなんですよ。日々の改まりが第一というのはね、いわゆる神様と交流するというか、神様がおかげを下さってもそれを受けとめる心というか、その受けとめる心をきれいに立派にしていくという事が信心なんです。金光様の御信心は。ですから結局、自分の心の中のいわばぷんぷんするような臭いのするような鼻もちならない心なのです。又はゆがんだ心なのです。真っ直ぐいの反対ですよ。そういう心の根を断つという事が信心なんです。そういう事を頂いてですねぇ、今日教典を頂いたら九十八節。その九十八節の心は、神信心の定規じゃによってと教えておられます。私共の心の中にね、臭い心やらゆがんだ心やら何とはなしにまぁだ神様のお嫌いになる心の根を断つ事が出来ないというところにです、私共の心をいつも不安にしてしまっておる。不安焦燥、いわゆる心配又は自己を責める心「用心せよ、心の鬼が我身を責めるぞ」と仰せられる。自分の心の中の、いわば心が我身を責めるのである。そういう例えば心があったんでは、神様が誰しもに、これは教祖様だけではない、片島センという先生だけではない、誰にも話てみたい。「今日はああだぞ、こうだぞ」と神様が、例えば災難でもかかってくるような時には、知らせて下さろうとしておる。けれどもそれを見事にキャッチする事が出来ない。だから信心をさせて頂いておるとですねぇ、そういう事を段々切実に感じるようになってくるですねぇ。
 先日も北野の秋山さんが、ちょっとした事故を起こされたんですねぇ。単車で人をちょっとはねられた。そういう時なんかですねぇ、もう心の中に神様がずーっとささやき続けるようにです、お知らせ下さってあるです。「今日はこの道を行くな、この道を行けよ。今日はどうもおかしいぞ」という風に、もう心に出掛けからずーっと、例えば道が二道になっておる所なんかで「この道を行けよ」と言わんばかりに教えて下さってあったけれども、それがですねぇ、いわゆる今日の私が言う、心の定規というものがすっきりしていない。それを本当に見事にピシャッとキャッチ出来るどころか、まぁだそれがどんよりとしていたそういう心が、いわゆる神様が話かけござるとが、ボソボソしか聞こえなかったという事になるのです。だからもちっとそんなら秋山さんの心が、信心の定規というものに押し当ててみてです、もうちっとスッキリしとったらもうハッキリ、例えば右の道を行けば災難に会うだろうところを必ず左の道をとったろうと私は思う。そういう事は、段々体験されますでしょう。信心させて頂きますと。だから必ずしも片島セン先生のような徳を受けられた方、教祖様のような方、いわば天に親戚が出来たと言うておられるが実を言うたら私共も天の神様とは親子の関係。だから親子の関係である私共に対して、神様がたえず私共にささやきかけておって下さる。あゝあれよ。こうあれよ。という風に言うて下さってあるんだけれども、さぁ聞く耳を持たん。片島セン先生に世界中の氏子に話がしてみたい、聞く耳を持たんからセンに及ばんとおっしゃった。聞く耳を持たない。聞く耳という事が聞く心だと思う。キャッチ出来ない。
 信心ちゃ、いよいよ私共が本当に改まりに改まらして頂いて、いわばいつも心の中が平常心。とりわけ平気でなければならん。平気という事は、私は平常心の事だと思う。胸がドキドキするといったような事であってはならないという事。落ち着いて静かに願え。胸がドキドキしとる時なんかはお伺いは出来ません。又は願っておっても、それは本当の願いになっておりません。落ち着いて静かに、静かに自分の心がずーっと、それこそ一直線に神様に通うていくような状態。そういう状態を願わせて頂く手だてが御祈念なんです。御祈念というのは、神様と通じ通うひとつの手だてなのです。だから御祈念をさせて頂いて、いわゆる大祓を上げたり天津祝詞を奏上させて頂いたり、一心不乱に大祓でも上げさせて頂いておると平常な心が段々出来てくる。そこから神様と何とはなしに通うておるのだろうと思われるような心が段々頂けてくるようになる。
 今日、この九十八節を頂いて、玉ねぎのその事を頂いて、なお又神様にその事をお願いさせて頂きよりましたら、立教神伝の一番初めの所を頂くのです。「この幣切り境に肥灰さしとめるから、その分に承知してくれ」と。はゝあ、これはいよいよひとつですねぇ、肥灰と言や、やはり臭いもの。この幣切り境に例えば今朝の御祈念を境に、今朝皆さんがこうして御理解を頂いて下さってある、この御理解を境に肥灰さしとめるぞ、その分に承知してくれと。神の声は例えば聞こえずともです、そこから私は今日はおかげが受けられる感じが致しますねぇ。今日の焦点とでも申しましょうか、ですからせめて今日一日だけでも日頃のこれは自分の癖なのだからと言わずに、こういう心があってはおかげが受けられないというのをそれこそ芯から根からとまではいかなくても、根を切る程しの事は出来なくてもです、肥灰さしどめられたとしてです、今日一日を心を神様に向けていかなければいけない。
 良心が科めると。悪い事なんか致しますと良心が科める。いわゆる心の定規というものは、もう乱れに乱れてしまった数字が出てくるという訳です。火の車作る大工はおらねども己が作りて己が乗るなりである。
 心がさいなまれる。心の呵責と言うですか。悪い事をした。例えば人殺しをしたり泥棒をしたりする人達は、いつも自分の心の中にそういう呵責を受けておる訳ですねぇ。それこそ夜中に休んでおる時でもコトッという音がしても、もう警察から追手が廻っておるのじゃなかろうかという気がするそうです。殺人なんか犯した人なんか、もう夜中に夢の中にでも殺した相手から、さい悩まされるそうですねぇ。夢の中やら妄想というかそういうものが、自分の心の中に自分がいじめたりこなしたり殺したりした人が、心の中に表れてくる訳です。それで呵責の念に耐えかねて自首する人が多いという事です。だからそういう大変な事ではないに致しましてもです、私共は手ずから人に傷つけたり、又は殺したりはしてはいないに致しましても、私共の心というものはね恐ろしい。心で傷つけたり心で殺したりするんです。いうならば例えば悪口雑言、例えば悪口を言った。ちった言い過ぎたと思うたら、やはりその人の機嫌とりをしなければならん心が出来てくるようなもんです。ですからいかに私共がね、有り難い、いわば平和な心と言うか、いわゆる和賀心を頂いておかなければならないかという事が分かります。
 今月の信心の焦点「仲良う楽しゅう有り難う」と、だからそういうところに焦点が置かれて日々です、もう誰とでも仲良う出来れる心というものを、焦点を置いてそういう精進をさせて頂くという事。これはだから、心で殺すとか心で傷つけるという事のない心ですから、おかげを受けますねぇ。むしろ心で祈ってあげると言うか、心で包容してあげると言うか、気の毒な人じゃ可哀想な人じゃと心で愛撫しておる。心で傷つけるのではない。心で殺すのではない。そういう状態の時にです、私共の心はいつも平気である。平生心である。そういう心で落ち着いて静かに願えと。そこに願わせて頂く、神様にお願いをする心の状態を教えておられる訳ですねぇ。
 私共の心から我情我欲は勿論ですけれど、私心を除きますと心が非常に有り難い方向へ向かいます。例えば、ひとつの会合なんかがありますね。そういう時に、例えば幹部の人が、自分の都合の事を心の中に置いてから話を進めたりしたら話がまとまりません。私心を捨ててみんなの事の為を思うて話を進めますと、話がまとまります。自分だけの都合のよいような話をもちかけていこうとしてもですねぇ、それでは話がスムーズにいきません。いわゆる私心を除いての話し合い。いうならみんなの事を思うての心、自分の事を抜きにしての心。信心をさせて頂く者は、そういう私は心の状態をいつも作っていく稽古をしなければいけないと思います。私心、自分の都合のよい事ばかり自分だけの願い、そういう小さい心がです、平気な心とか平生心という事を崩してしまうような結果になる事を知らなければいけません。いつも例えば神様が喜んで下さる心、いうならば人が喜んで下さる心、そういう心の状態でおる事はです、そういう時の心をいわば定規で計ってみますと、神様に通う心が非常に強くなっておる。だから自分の思いというものを、やはり捨てておらなければならんと同時にです、人が喜ばれる人が助かられるという事をです、いつも願いとしての祈りが出来る。
 先日、大和さんが壮年会の時に発表しておられましたが、子供さんがもう久留米まで自家用車で行っても酔われる。ところが北九州の方へ見学に行かなければならん。しかもバスでと。とにかく、お父さん前の日から神様にお願いさせて下さいと言うて御神米を持って行かれた。それでお父さんたる大和さん、娘が日頃そのように久留米まで行っても酔うような人ですから、その事を一生懸命願われた。そして願われる時に気付かれた。これは自分の娘だけの事であっちゃならん。娘だけが酔わなにゃそれでよいというような事じゃいかん。そのバス一台、全部の生徒達がです、無事に酔う人なんかが出来ずに、無事に行って帰って来る事が出来ますようにという願いを行かれた後に一生懸命にさせて頂いたと、こう言うておられる。そして畳屋さんですから、畳の仕事に行かれましたらね、畳の仕事をしよるうちにです、もう吐き気がきてから、もう酔うた時ちゃこげなもんじゃろうかと思う程、もう仕事止めて帰ろうかというごと悪かったそうです。これなんかは神様のそういう願いというものを聞き届けて下さった、まぁしるしなんですねぇ、いわば。だから問題はもっともっと信心が高度になってくると、そういう事もなくておかげを頂ける事もありましょうけれども、私共は凡夫ですから、そこんところを頂かんとですねぇ、神様のおかげ頂きよると思いきらん。今日はあの人達がおかげ頂くばいなぁと思うたと。そしたら、もう元気はつらつとして帰ってきてから「お父さん、今日はみんないっちょん酔わんで、無事に楽しゅう行って来た」というて帰ってきたという発表をしておられます。これなんかは、いうなら私心を除いて大きな願いをされた訳です。そういう心が神様の心に適うのですよねぇ。「うちの娘は酔いますから、どうぞうちの娘が酔いませんように」ばっかり、そういう事ではね、例えば自分の方へそういう受け応えがない。それではいけん。やはり私心を除いての願いといったようなね、信心が段々出来るようにならにゃいかん。勿論もっとそれが深刻に頂いて参りますと、我情我欲という事にまでなって参りましょう。その我情我欲の中身というものを調べてみます時、私が御神前で頂きました、それこそこういう心があってはおかげが受けられないという心。いうならば臭い心、曲がった心、そういう心があったんではです、お願いをしてもお願いをしてもです、おかげ頂ききるじゃろうかという事になってくるです。不思議です。おかげは受けられまいごたる気がするです。もうそのおかげが受けられまいごたる気がするもうその心が、おかげを受けんのです。ところがそれがですね、それこそ根を切るように、その事をスッキリ改まって願わしてもらうとですね、おかげになるおかげになるという心が非常に強くなってくる。信ずる心が。だからおかげになるのです。神様を信ずるという事を申しますがね、神様を信じれれる人ならばですね、やはり心も美しい人です。段々心を美しゅうしていく事に努めさせて頂く、我情我欲を取り除いていく事に努めさせて頂く、自分のゆがんだ心といったような臭い心を取り除いていく事に焦点を一生懸命置いて参りますとです、神様を信ずる心が段々強うなってくる。神様を信ずる心が段々強うなってくるから、神は信ずる者を信ずると仰せられるようなおかげが頂けてくるようになる。そこからね、今度は神を信ずるのじゃない、神様が私共を信じて下さるようになる。私共が神様を信ずるだけではなくて、神様が私共を信じて下さる。いやあの氏子はもう大丈夫だと。「あの氏子は」と言われるような私共にならせて頂く稽古。そこにです、神様が世界中の氏子に話がしてみたいと仰せられておられる、いうならば神の心を自分の心の中に、頂き止める事が出来る。神の声をそこにキャッチ出来れる心。そういう心が心の中に段々はっきり備わってくる。心は神信心の定規なのですから。いうならば神信心の、いうならばおかげのバロメーターなのですから心は。だからこげな根性の悪い事ども言うちゃならん。こげな汚い事ども考えちゃならん。こげなずるい心が起こってきよる。このずるい心を根からひとつ断たなきゃいけんというようにです、私共はそういうことに焦点を置いて、日々精進させて頂いていくうちにです、段々心のいわば定規がピッタリ神様の心と合うようになってくる。そういう稽古なんですから、信心は実にいわば楽しい有り難い事になってくるですね。例えば誰との仲が悪い、そこにですよ、私が改まらなければならないものを悟らせてもろうて、仲良う楽しゅう有り難ういけれる心の状態をいつも作っていく稽古をする。そこにいろいろな御教えも又ある訳です。
 今日はとりわけ私共の心の中から、せめて今日一日でもよいから、この心の根を断たして頂く、いわゆるこの幣切り境に肥灰さしとめると、まぁ厳しい事ですけれども、まぁずーっとじゃない。今日一日とひとつ思うてみて、今日だけはこの事はさしとめられておると思うて、私は改まる稽古を少しずつでもしていくところから、なる程改まるという事が、例えば今日一日でもこのように楽な事だ、有り難い事だ、心を平生にしていけれる事だと分かったら、二日が三日になっていきゃ、尚有り難い事ですからね。どうぞ。